伊藤 喜一 氏(三重県)

伊藤 喜一 氏(三重県)

立烏帽子を被り現場で指揮をする棟梁。棟梁は設計士であり、現場監督であり、最高の技術者でもあり皆の憧れであった。全国の将来番匠師となる技術を持った大工棟梁を紹介していく。


今回は、三重県四日市市で宮大工として弟子入りし、独立後一般住宅も手がけるようになった伊藤建築棟梁、伊藤喜一氏にお話を伺った。

性に合わない仕事より性に合う仕事


伊藤喜一棟梁は十九歳で修行に入ってキャリアを積んできた。大工になったきっかけをお聞きすると、「会社勤めは性に合わない」と言われた。お父様は大工ではないが、親戚に大工がいたようで職人の世界に憧れ、友達が左官屋になると聞き、「じゃあ、俺は大工になる」とこの世界に飛び込んだ。
弟子入り先は知り合いの大工のさらに師匠の方で、七十を超えていたがまだ現役の宮大工さんだったそう。何も思わずに大工の世界に飛び込んだだけに、大工とは木を切って削るぐらいとしか知らなかったので素直に何でも聞いて、丸太に穴を開けることから始め、仕事は面白かった。
親方は無口で年齢も重ねていたのであまり口煩く言う人ではなかったが、当時十歳ぐらい年上の兄弟子は厳しい人だった。職人とは何か、徒弟制度は何かを教えてもらったそうである。現場ではとにかく歩いていると怒られる。常に緊張感を持ちながら小走りで道具を取りに行かされた。
今は和室の鴨居(かもい)を取り付ける際には、「鴨居受け」と呼ばれる器具で部材を固定して取り付けるが、昔は見習いがそれを持たされた。持っているとその部材の重さで手が震えてくるが、少しでも動くと怒られる。一人前でない職人はそんな雑用から修行をはじめるのである。ちなみに「鴨居受け」という器具は現場では「半人前」と呼ばれているそうである。器具を使う方が便利だと思うのだが、昔は部材を持たされながら、先輩大工がどういう風に「光付け」と呼ばれる部材同士を隙間なく取り付けるかを見て覚えた。弟子入りして最初は一般住宅と社寺建築の現場を半々で手伝いに行ったが、一年ほどすると社寺建築の現場がほとんどになったそうで、一般住宅と社寺建築の違いがあるかを聞いたが、一般住宅も伝統構法であれば同じだそう。ただ、社寺建築は一般住宅に比べ多くの道具を必要とするそうである。

大工仕事の質が悪かった時代

伊藤棟梁が修行をしていた時代は大工仕事の質が一番悪かった時代ではないかと話される。戦後のスクラップビルドの施策の中、多くの住宅はボルトや金物を使い、早く建てることが良しとされた時代で、社寺建築にもその波は押し寄せたようである。金物を使い、ボルトで材を引っ張ったり、鉄筋コンクリート造のお宮も多く建てられた。
古民家や社寺建築を見ればわかる通り、木材という建築材料は非常に長寿命の材料である。湿気さえ来なければ世界最古の木造建築法隆寺のように何千年ともつのである。一方の鉄筋コンクリートの法定耐用年数はざっと六十年あまり、残念ながら何千年とは持たない材料である。
また、木のお宮と、コンクリートのお宮、比べるまでもない気がするが、私はコンクリートのお宮には神様も仏様も住みづらい気がして仕方がない。伊藤棟梁も当時、鉄筋コンクリートのお宮を作る際に屋根の破風のコンクリートを流す型枠を作ったそうである。型枠は、型枠大工さんという職種の人が手がけるのが普通だが、型枠大工さんはまっすぐな型しかできないため、カーブを描く照り屋根の破風の型枠は当時は宮大工さんの仕事だった。

全国での修行の日々

修行を始めて六年目、保育士の奥様と結婚し、そろそろ一人前になるかと感じていた矢先、親方が病に伏し、親方の紹介で全国的に社寺建築を手がける工務店へ社員として勤め始めた。
その会社には約二十年ほど勤めた。東京にも支店のある会社で横浜や東京でも泊まり込みで仕事に行ったそうで、関西圏の仕事でも車で片道二時間以上かかる場合には泊まり込みで仕事をした。
伊藤棟梁は仕事も真面目だが、私生活も簡素な方のようである。お酒は嗜まれるが、職人に多い賭け事などは一切されない。出張中でも週に一度の休みの日は一週間分の洗濯物を持ってご自宅に帰っていたそうだ。伊藤棟梁のような真面目で几帳面な方は、住みながらのリフォームなどの際のお客様への心遣いも深いだろう。

会社員だった頃は職人気質で、お金には無頓着で、自分の日当がいくらかなどは考えたこともなかったそうだ。独立して十年、今は若い見習いが二人いるので「お金勘定もせわしくなった」と笑顔を見せた。棟梁は腕がいいことはもちろん、経営者としてお金のことも考えなければならない仕事であるし、後継者育成のためには営業センスを磨く必要もある。
大工は道具にお金がかかる。大型の電動工具は会社で購入しているが、手仕事の道具や、丸ノコなどの電動工具も基本的に自分で購入する。伊藤棟梁の職場は特に宮大工の職場なので周りの職人は道具道楽が多かったそうである。伊藤棟梁は高価な道具や、有名なメーカーのものにはあまり興味がないが、自分の手に合う道具にはこだわりがあるようである。鋸のこぎりは最近は刃が使い捨てのものが多いのだが、伊藤棟梁は「目立て」と呼ばれる刃先の研ぎ出しをお願いしている。また、作業場を見せてもらったが、とにかく作業場が整理整頓されていて綺麗なのには驚かされた。作業場の中には木製の道具箱がいくつも重ねて整理されており、材料も綺麗に片付けられている。どこに何があり、それが常に使える状態になっている。出来そうで出来ないことだ。

伊藤棟梁の真面目で几帳面な性格はお客様との打ち合わせにも表れている。伊藤棟梁が手がけた古民家再生の現場にお伺いしてお客様にお話を伺ったが、打ち合わせの都度、作業を始めるときに詳しくわかりやすく説明してもらい安心して仕事をお願いできたと話されていた。

手加工と電動工具ならそれは手加工の方が早い


手斧(ちょうな)という道具がある。伊藤喜一棟梁の作業場にも手斧があったので持っていただいた。
古民家の梁は手斧で仕上げられているが、なぜ今でも手斧を使うのかを伊藤棟梁に聞いたところ、手斧で丸太の皮を剥く理由は腐朽を防ぐこと。丸太の皮は腐りやすく、また虫も付きやすいとのこと。
また、電気カンナなどの工具を使うより手斧の方が早く仕上げられるそうである。熟練の技は電動工具に勝る。さすがである。
手斧の刃先を保護するためにお手製のカバーを木で作られており、そこには伊藤とお名前が彫られていた。看板も棟梁が古い建具を使って作ったものだが、看板の文字もやはり棟梁が書かれたそうである。几帳面で手先の器用さが腕のいい棟梁の証拠なのかもしれない。

その眼差しの先にあるもの。


お弟子さんについて聞いてみた。二人のお弟子さんがいるそうだが、時間があるときには作業場での木材の加工で普通は電動工具を使って加工するところをわざわざ鑿(のみ)を握らせて加工させるそうである。
伊藤棟梁自信も加工に加わり手本を見せるそうだが、まだまだ若い者には負けないと笑顔がまたこぼれた。何人かの大工棟梁や職人の方々を取材してきたが、皆さん笑顔が素敵なのである。
伊藤棟梁と初めてお会いした時にもその笑顔にやはり惹かれた。仕事中は真剣勝負で現場で見る限りは厳しさに溢れているが、ひとたび現場を離れるとおおらかで自信のある棟梁たちは温厚で優しい方が多く、人間的に魅力のある方が多い。
私は伊藤棟梁のような、笑顔が素敵な棟梁たちをもっともっと多くの方に知っていただきたいと思うし、棟梁に頼んだ仕事がどんなに素晴らしいものかを知っていただきたいと思う。今のお弟子さんがそろそろ一人前になって独立されるのではと聞いてみたところ、少し寂しげなな表情ながら、「もう、そろそろやね」と話された。一人前として独立できる条件は何かと尋ねると、「自分で問題を解決できるようになったら一人前」と教えていただいた。
技術に関してはここで完成ということはなく、伊藤棟梁自身、今でも学ぶことがたくさんあるそうだ。弟子入りしたては何もわからず棟梁の言う通りに動くしかない。しかし自分が解らない問題に遭遇しても、他の大工や職人、棟梁に聞いて経験を積みながら自分で判断ができるようになるのが必要だそうだ。また、解らないことは実はお客様に聞くのが一番だそうで、お客様のこういう風にしたいという夢を聞いて、それを形にできるのが職人としての条件だそうだ。お客様に聞いてと躊躇なく言えるのはまさにプロとしての誇りを感じた。

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